やっぱり隅田川テラスが好き

毎日のウォーキングのついでに中央区周辺の水辺の風景を綴っていきます

鎧橋(よろいばし) 橋シリーズその1

北東側から撮影。右奥に見えるのは東京証券取引所

隅田川とその支流の川に架かっている橋にはそれぞれ色んな物語があって面白いので少しずつ取り上げていきます。第1回は鎧橋。場所はこのあたり↓。

 

かつては鎧の渡し。今は平成通り

鎧橋の上を通る道路は通称「平成通り」。おそらく少し西を走っている昭和通りに倣って名付けられたのだと思う。名前は平成だが、歴史は昭和通りよりも古い。昭和通りが文字どおり、昭和の初めに(関東大震災の)震災復興道路として開設されたのに対して、平成通りは名付けられたのが平成元年なだけで、道路自体は江戸時代から存在し、明治の頃から昭和にかけては市電も走っていた。

 

ただ、鎧橋自体は江戸時代には存在していなかった。橋の代わりに「鎧の渡し」という有名な渡し船が運行されていたのだ。川幅は50mも無いくらいなので、おそらく漕ぎ出した瞬間に到着してしまうようなものだったと思われる。

 

今から150年以上も前の話なのだが、実は今でも鎧の渡しの痕跡を見ることができる。普段は見えないのだが、大潮のときなどのものすごい干潮のときに鎧橋を通ると、当時、船を舫(もや)っていた木製の係留杭が顔をのぞかせる。

右岸側:左は通常の干潮時、右は大潮の時の干潮時

上の画像は右岸側(南側)の様子だが、左岸側にも同じような杭がある(下)。

左岸側:左が通常の干潮時、右が大潮の時の干潮時

丸い穴が目立っているが、このあたりには暗渠になるような川は無かったはずなので、おそらく現在では使用されていない排水管の跡のようだ。

ちなみに、上記の画像は比較しやすいように「通常の干潮時」と「大潮の干潮時」を並べてみたが、満潮ともなるとこんな感じ↓になって何が何やらわからなくなる(右岸)。

満潮時の右岸

鎧橋の痕跡も

現在の鎧橋は昭和32年に架けられた比較的新しい橋だが、初代の鎧橋は明治5年。鎧の渡しの不便さに業を煮やした近所の豪商たちが自腹を切って木製の橋を架けたのが始まりだった。その後、明治21年に鋼製のトラス橋(古い鉄橋などに見られる三角形を基本にした橋)が架けられ、その上を市電(当時は東京「市」だった)も走るようになった。

 

その「鋼製のトラス橋」はずいぶん頑丈に作られていたようで、東京中の橋が破損した関東大震災にも耐えた橋だった。そのときの橋の土台は煉瓦で固められていたのだが、実は今の鎧橋もその煉瓦の上に架けられていて、その様子を見ることもできる。

船から撮影したのでちょっとブレた

橋の真下の煉瓦のあたりが明治21年建造の箇所。右のほうの石垣は(満潮なので係留杭は見えないが)江戸時代の鎧の渡しがあった箇所。

 

そもそも「鎧」って・・

鎧橋の南側は「兜町」。鎧と兜とは、何か関連がありそう・・と誰しもが考えることなのだが、例によって?中央区教育委員会が説明版を立てている。

あまり全部を真に受けない方がいいと思う

説明を要約すると、「平安時代に奥州平定に向かった源義家が『鎧』を川に投げ込んだ。それ以来ここは鎧が淵と呼ばれた」などと書かれている。

だが当時の奥州街道はここよりもはるか北、今の白髭橋あたりで隅田川を越えていたし、そもそもその頃、このあたりは「鎧が淵」になるような「川」などではなく、東京湾そのもの、あるいはそれに面した湿地帯だったはずなので、いくら「伝説」にしてもちょっとどうなの?という気もする。

 

ただ、大手町(あのあたりはかなり昔から神田山から続く大地だった)に平将門首塚があるよう、説明書きの終わりのほうにちょろっと書かれている「平将門が鎧と兜を納めた」というあたりが由来としてはしっくりくる。

 

兜町という町の名前は今でも日証館の横にある「兜神社」由来だが、実は証券取引所のあたりに「鎧神社」という神社もかつて存在していたようなのだ(のちに兜神社に吸収された)。なので、鎧の渡しについても、「鎧神社があった場所の渡し船」という単純な話では無いのかなという気もしている。