やっぱり隅田川テラスが好き

毎日のウォーキングのついでに中央区周辺の水辺の風景を綴っていきます

どこまでが隅田川?

東京都建設局のWebサイトなどを見ると、『隅田川は全長23.5km。荒川との分岐点から東京湾にそそぐ場所までが隅田川』というようなことが書かれている。隅田川の河口付近は運河だらけなので少しわかりにくいが、これは単純に定義の問題なので、「あーそうですか」と納得するほかない。上の地図で赤の二重線のあたりが隅田川の河口ということになるようだ。

ところが隅田川テラスの、上の画像の赤の星印のあたりに面白いものがある(下記の写真)。

『河口より2.0km』『隅田川右岸』と彫り込まれている

この石碑、誰が立てたのか、いつ立てたのかがまったく書かれていない。登山道によくある「〇〇峠までXXキロ」という立札のような、当たり前のような顔で存在しているだけ。

 

ところがこの場所から2kmだと、最初に書いた河口には届かないのだ。河口よりもちょっと手前の築地大橋までがこの場所からちょうど2km。これはいったいどういうことだろう・・?

 

隅田川は歴史と共に伸びて来た

橋を数えるときは河口のほう、つまり下流から順に「第1橋梁、第2橋梁・・」という呼び方をする。なので第1橋梁というのは川の最下流にあって、いわば川の玄関口という位置づけになるので、歴史のある川であれば第1橋梁は凝ったデザインになっていることが多い。

大正15年に震災復興橋として再架橋された今の永代橋が完成したころには永代橋隅田川の第1橋梁だった。それは隅田川の玄関口であると同時に東京の玄関口だったため、当時は『帝都の門』という別名すら持っていた。

「帝都の門」永代橋。国の重要文化財

そして当時、永代橋の南側に橋は1つも無く、いきなり東京湾が広がっていた。永代橋のたもとのような新川のあたりには「東京湾汽船(今の東海汽船)」のターミナルがあったくらいだ。なので「永代橋を抜けるとそこは海だった」という感じだったのだろう。

 

その後昭和15年(1940)に勝鬨橋が完成する。この年は、戦争で中止になったものの、予定通りであればオリンピックと万国博が東京で同時開催されるという記念すべき年になるはずだった。おまけにその年は皇紀2600年というメモリアル年でもあった。

勝鬨橋はそれらの大イベントのために世界各国から訪れる客船を迎え入れる「東京の玄関口」でもあったのだ。東洋一の跳開橋と呼ばれたよう、背の高い客船でも橋を越えることができた。「勝鬨橋を抜けるとそこは世界に続く海だった」という感じだったのかもしれない。

跳開橋だった勝鬨橋(重文)。中央区図書館所蔵絵葉書から

その後は長い間「勝鬨橋隅田川の第1橋梁」だった時代が続いていた。佃大橋や中央大橋といった橋が増えたが、それらは勝鬨橋よりも上流だ。それが2018年になって築地大橋が完成したことから話がややこしくなった。

形式的には築地大橋が隅田川の第1橋梁となったわけだが、この橋はそもそも中央区本土と豊洲方面との接続を良くするために架けられた橋で、「川の玄関」的な位置づけではない。今あえて「玄関」というならば、はるか海上にある「東京ゲートブリッジ」こそが海からの玄関口という位置づけになるのだろう。

 

だからなのか「隅田川の河口」の定義も、それまでは永代橋勝鬨橋という「玄関基準」でわかりやすかったのが、「東京湾との接続地点」という地理的な定義になってしまった。

 

水門の管轄

冒頭の地図には水門の場所を書いてみた。東京には高潮を防ぐために水門がたくさんあるが、大雑把には「川に面した水門」は江東治水事務所の管轄(背景を白く書いた水門)で、「海に面した水門」は東京都港湾局の管轄(背景を黄色くした水門)になっている。

 

地図を見てわかるよう、現在の隅田川河口の内側、さらには築地大橋の内側にも、海をつかさどる港湾局管轄の水門がある。

おそらくこの管轄は「勝鬨橋」基準で決められたのではないかと思う。勝鬨橋より上流は江東治水事務所、下流は海なので港湾局というように。水門が設置された昭和30年代・40年代には勝鬨橋が第1橋梁だったのだから当然だ。

 

結局・・

あの「2.0km石碑」を立てた人は築地大橋にも、勝鬨橋永代橋と同様の「海と川の境界線的な位置づけ」を持ってほしかったのかな、と思う。

 

ちなみに川というのは警察の管轄なので、川を走る船で事件や事故が起きれば110番通報だが、海では海上保安庁の管轄になるため118番通報になる。なので海と川の境界線になる河口の定義は重要・・・と思いたくなるが、東京の場合はちょっと事情が異なる。

 

川というのは区と区の境界線だったりするため、110番通報しても所轄が「どっちなの?」ということになりかねない。そんな問題が起きないようにするためか、東京には「湾岸警察署水上課」という組織が存在する。

「水上課」というと何となく小さな組織のように思えるが、かつては「東京水上警察署」という独立した警察署でもあり、その機能をまるまる引き継いでいるので警備艇だけで25隻も持っている。しかも管轄は区の境界線を度外視して東京中の河川なので、たとえば神田川の河口(住所からすれば中央区久松署の管轄)にも「水上派出所」を置き、警備艇も常駐させている。そんな組織だ。

8m級の小型警備艇「いそちどり」

そして水上課の管轄は河川だけにとどまらず、京浜港、すなわち東京港や川崎港、横浜港も含んでいるのだ。要するに隅田川の河口がどのあたりにあったとしてもすべて湾岸警察署水上課が面倒をみてくれるというわけ。

 

・・・というような諸々の理由で、今では「隅田川の河口」にさほど大きな意味は無いようだ。築地大橋を河口とする意味はさらに薄い。とはいえ「河口がわからない」となると色んな不都合もあるだろうから、便宜上、地理的に「東京湾との接続地点を河口としておく」くらいがちょうどいいのだろう。