上の写真はぼくの好きな場所の1つ。お昼どきなので逆光になってしまっていてわかりにくいが奥のほうが隅田川の下流。左のほうは月島だ。地図で示すと下記の場所。
そしてこの場所、隅田川テラスから上に上がったところに面白い記念碑がある。地元のライオンズクラブが建てた「江戸湊の記念碑」というものだ。
江戸湊というのは水運が物流の主役だった江戸時代、全国各地から江戸に運ばれる物資が荷揚げされていた場所のことで、この場所も含めて江戸の町の各所に湊があった。江戸の町は運河だらけだったのだ。それと併せてこの記念碑には、昭和の初めまでこの地から伊豆諸島に出航していく客船があったことも記されている。
実はぼくがまだ街歩きやリバーガイドなどに興味が無かった昔、たまたま散歩していてこの記念碑に行き当たり(結構わかりにくいところにある)、説明文を読んで『こんなところから伊豆諸島行きの船が・・??』とちょっと衝撃を受けた。それがきっかけで中央区の歴史や隅田川の水運の歴史に興味を持つようになったという思い出の場所でもある。
東京湾汽船
この地から伊豆諸島に船を出していたのは東京湾汽船という会社。現在竹芝から伊豆諸島行きの船を出している東海汽船の昔の名前だ。東京湾汽船が設立されたのは1889年(明治22年)のことなので、実は東海汽船というのは創業130年を超える老舗の水運会社でもある。
たまたま昭和11年当時の地図が手元にあったので、新川のあたりを拡大して掲載してみる。新川の東南隅に東京湾汽船会社があり、あと、当時は今の鍛冶橋通りに市電が走っていて「越前堀」という停車場があったこともわかる。
現在ではこの場所から隅田川を下って東京湾に出るには佃大橋・勝鬨橋・築地大橋という3つの橋をくぐらないといけない。あるいは遠回りして晴海運河のほうから抜けるとしても3つくらい橋がある。これでは船がつっかえてしまう。
ところが東京湾汽船がこの地にあった昭和15年くらいまでは、ここより下流には橋は1つも無かったのだ。というより、昭和15年に勝鬨橋が完成することを受けて、東京湾汽船が竹芝に移転したという経緯がある。
勝鬨橋は橋の真ん中が上に向いて開くという有名な跳開橋(1970年頃まで稼働)なので、橋自体は運航の邪魔にはならなそうだが、隅田川は水流が緩くて川床に土砂が溜まりやすい。そのため移転の直前の頃にはあまりにも水深が浅くなって船を桟橋に横づけできず、乗船下船のたびにいちいち艀(はしけ)を出していたそうなので、そもそもこの地での営業に無理が生じて来ていたという事情もあったらしい。
そして、中央区図書館には昭和11年当時の東京湾汽船の時間賃金表が残されていた。賃金といっても給料のことではなく、運賃という意味。菊丸、橘丸、葵丸の3隻が就航していたことがわかる。このうち橘丸は今でも東海汽船が運用しているので聞いたことがある人もいるかもしれない。ただもちろん現在の橘丸は2014年に就航した3代目で、乗船案内にある橘丸は初代のものだ。
あと、船着場の最寄駅が市電越前堀と書かれているのもわかる。
想像力が広がる場所
初代橘丸の貴重な写真が東海汽船130周年記念サイトで公開されているのでお借りしてみた。
そして冒頭の写真の夕方バージョンが下記。目の前は今では高層ビルだらけだが、昭和11年当時は目の前は東京湾が広がっていたはず。そしてその海に向けて初代橘丸が堂々と出航していた風景を思い浮かべるととても楽しい。