隅田川は荒川から岩淵水門で分岐して東京湾に流れ込む全長23.5kmの川(下図)。
昔、まだ荒川放水路(現在は「荒川」が正式名称)が無かったころには、今の隅田川流域が荒川という名称だった。とはいえ、「すみだがわ」という名前が無かったわけではなく、中流の白髭橋のあたりは平安時代!の頃から「すみだ川」と呼ばれていたようだし(伊勢物語に出てくる)、浅草以南は「大川」という呼称が一般的だったようだ。
水害に悩まされた隅田川流域
そんな隅田川だが、もと「荒川(=荒ぶる川という意味)」という名前だっただけのことはあって、しばしば氾濫して東京に水害をもたらしていた。氾濫、という言い方が正しいのかどうかわからないが、洪水だけでなく海側から押し寄せる高潮の被害も酷かったそうだ。
特に1949年のキティ台風、1959年の伊勢湾台風による被害は甚大で、それを踏まえて整備されたのが鉛直堤防だ(垂直堤防とかカミソリ堤防とも呼ばれる)。要するに高いコンクリートの壁で隅田川の両岸をすっぽりと囲んでしまったのだ。
これによって隅田川沿岸の地域はひとまず水害の危険からは逃れられたものの、弊害も生じた。人々と水辺が完全に分断されてしまったのだ。それまで、水害には悩まされたものの隅田川は人々の生活に溶け込んだ存在だった。
水辺と人との分断、そして再生
大昔のヒット曲「明治一代女」の歌詞に以下のようなものがある。
『浮いた浮いたと 浜町河岸に
浮かれ柳の 恥かしや
人目しのんで 小舟を出せば
すねた夜風が 邪魔をする』
浜町河岸というのは現在の両国橋と新大橋の間のあたりの、中央区側の隅田川沿いにあった歓楽街のことだ。「人目しのんで小舟を」出せるほど、水辺は近かった。
その隅田川が高い壁の向こう側の存在になってしまったことで、人々は川と共存することを忘れて川を蔑むようになり、高度経済成長期には隅田川はまるでどぶ川のような悪臭を放つ川になってしまった。明治時代から隅田川で伝統的に行われてきた「早慶レガッタ」も水環境が酷すぎて1962年以降は隅田川から撤退した。
しかしその後、日本は国として公害対策に力を入れるようになり、隅田川の浚渫・浄化も始まった。そして「人々が再び水辺と親しむことができるように」という願いの結果が、隅田川のほぼ全域をカバーする「隅田川テラス」だ。1978年には早慶レガッタも再び隅田川に戻って来たのだ。
そして堤防のほうも進化している。まだ部分的にではあるが、鉛直堤防の「スーパー堤防化」が各所で行われているのだ。工事は大変だが、水辺と街とが一体感を持ちつつ、きちんと堤防の機能も持っているという素敵な仕組みだ。
【追記】2022年11月7日のニュースで、都内の堤防がさらに増強されるという話を聞いた。鉛直堤防の設計当時には想定していなかった「地球温暖化」対応らしい。現在の堤防の高さは「もう一度伊勢湾台風級の高潮が来ても大丈夫」な高さだが、温暖化によって高潮はさらに高くなることが予想されるのだそうだ。すべての堤防が改修必要というわけでは無いようだが、それでも30%くらいの堤防を1.4mほどかさ上げする計画だという。
せっかく人と水辺が共存できる環境が整いつつある状況に水を差すようなことにならなければいいのだが。